若年性アルツハイマー型認知症の私が天職に出会うまで ―下坂厚インタビュー
「若年性アルツハイマー型認知症」とは、65歳未満で発症する認知症です。下坂厚さんもまだまだ働き盛りの40代に認知症であることが診断されたとのこと。下坂さんが認知症になった当時のことから、仕事や趣味を楽しみながら暮らしている現在に至るまで、ご本人の体験談を伺いました。
人生の半分を占めていた仕事ができなくなる
−2019年46歳の時に認知症になったということですが、当時について教えてください。
大手鮮魚店で20数年働いた後、2019年4月に仲間たちと新しい鮮魚店を立ち上げました。当時は朝5時から夜9時まで、週1休む程度で働いていましたね。毎朝魚の仕入れに行き、持ち帰った魚で刺身や寿司などを作り販売する。それだけではなく、魚をテーマに新しいプロジェクトを企画したり、様々な情報を発信したりして。今考えると働きすぎでしたが、好きなことをやっていたので充実していました。
−認知症を意識したのはどんなことからですか?
お客さんの注文を忘れたり、仕事で用意すべきことを忘れたり。それに仕事の手順が分からなくなることもありました。どれも疲れのせいかなとあまり気にはしていませんでしたが、職場までの道のりが分からなくなること、一緒に働く仲間の名前が出てこなくなること、そんないつものことができない自分にやっぱりおかしいなと。
−徐々に、日常生活の変化に気が付いていったんですね。
まず近所のクリニックに、「もの忘れ外来」があったので行ってみることにしました。そこで認知症の診断に使われる「長谷川式認知症スケール」というテストを受けて、30点満点中の15点でした。それで先生から「より専門的な医師がいるところで診てもらった方がいいです」と、大きな病院への紹介状を受け取りました。2019年の8月に、脳の検査や内科の検診なども行い色んな可能性を探った結果、若年性アルツハイマー型認知症と診断されました。その時はまさかのことで、目の前が真っ暗になった気がしました。
−周りにはどのように伝えましたか?
真っ先に職場へ伝えないといけないと思いました。私の様子が違うことはすでに知っていましたし、これからみんなに迷惑をかける訳にもいかないなと。話した際には、「病気だとしてもここに居てほしい」と言ってもらったんですが……、きっぱり辞めることにしました。魚屋での長いキャリアがくずれる気がしたことと、仕事ができなくなっていく自分を周りに見せることができなかったんだと思います。診断結果から約1ヶ月後には退社しました。
認知症になってはじめて気付くこと
−パートナーである佳子さんとはどんなやりとりをされましたか?
実は、妻には診断後も認知症であることを少し隠していました。私自身が認知症に対し「何もできなくなる」「何もわからなくなる」みたいな偏ったイメージを抱いていたこともあり、できることなら知られたくないなと。とはいえ職場はやめてしまったし、隠し通せる訳もないなと……話すことを決めました。話した頃の妻は何でも先回りして「危ないから止めて」とよく言っていました。外出の際にもLINEのメッセージなどで「今どこ?」「何してる?」と心配ばかりしていましたね。今ではこの生活にも慣れた様子で、ちょっと離れたところから私らしく過ごせるよう見守ってくれています。とても感謝していますね。
−診断されてから3年経っていますが、症状に変化はありますか?
普段の生活は、地図アプリなどのスマートフォンアプリを活用したり記録のために写真をとるなど工夫をすることで、あまり不自由なく暮らせています。ただ、直近のことを覚えるのが難しいのは変わらずで、以前ではなかった時間感覚のズレなどが生じるようになりました。それは不便なようで……、なかにはいいこともあるんです。時間が経つ感覚が鈍くなっているので待たされていたとしても気付かないんです。普通待たされていたらイラっとしてしまうでしょう?それが平気なんですよ(笑)。
ここだったら自分も何かができると感じた
−現在のお仕事についてお訊かせいただけますか?
診断された後、認知症初期集中支援チームの方が家庭訪問に来てくださったんですね。その時は魚屋の仕事をどうやって続けていくかという話がメインで来ることになっていたそうなんですが、私はすでに会社を辞めてしまっていて。当日その状況をお話したところ、「関係先でデイサービスのボランティアがあるのでやってみませんか?」と誘ってもらいました。
当初は、絶望の淵にいる自分が誰かのためにボランティアだなんて……想像できませんでした。ただ、引きこもりがちになっている自分に何か出かけるきっかけを与えようとしていることにはありがたさを感じていました。だから現場で断ることになるかもしれないけど、お話だけは聞こうと施設に足を運びました。
−実際に行ってみてどうでしたか?
デイサービスの施設長と直接お話をさせてもらい、興味深いお話がたくさんありました。そこでは、利用者さんがまな板など様々なものづくりを行っていて、その作業に対する報酬を得ており仕組みも整っていました。
当時の私は、介護される側に対しどこか不自由さを持って生活しているのではと勘違いをしていました。みなさんそんなことは全くなくて、本当にアクティブですし、何より楽しそうに過ごしているのが印象的でしたね。ここだったら自分も何かができると、そう感じました。
施設の方と1日お話した結果「下坂さんは色々とできそうだから週3回のアルバイトで、介護の仕事を始めてみませんか」と誘われ仕事をすることになりました。
−お互いに、そこで働くイメージが湧いたということですね。
そうですね。当初介護は専門性の高いものなので厳しいかなと思ったりもしましたが、現場を覗いて意識が変わりました。入浴介助や排泄介助って、利用者さんの生活上の不便を補うことですよね。それって長年自分が暮らしてきた上での経験を活かせることだと思って前向きに捉えることができました。
−その後、週5日の正職員になったそうですね。
長年サラリーマンとして生きてきた私は、仕事を辞めてから、どこか社会から取り残されているような気がしていました。所属がなければ肩書きもない、自分の居場所がない気がして悩んだりもしました。だから正職員のお話をもらった時は素直に嬉しかったですね。必要とされたからには頑張ろうと思いました。
活躍の場がある、それがなによりの幸せ
−認知症当事者だから分かること、できることなどはありますか?
はい、あります。施設には、若年性に限らず認知症の人が複数いらっしゃいます。認知症の人の中には、人混みや雑音の多い場所が苦手で、心が落ち着かないことがあります。デイサービスのフロアでも同じように困っている人がいたりするので、その時はすぐにその人を静かな場所へ連れ出すなど配慮しています。
また、多くの人は、認知症の人は記憶を失っていく一方だと思われていますが、認知症は何かをきっかけに記憶が蘇ることもあるんですね。だから利用者さんが暮らしてきた環境や家族のこと、仕事のことなど背景をもっと知ることにより、その人の大切な記憶を引き出しながらケアできるよう努めています。そのあたりは自分も当事者だからこそ、手厚くケアできる部分でしょうね。
−今とくにやりがいを感じることは何でしょう。
たくさんの人と触れ合えること。そして、直接感謝してもらえることもやりがいになっています。
魚屋の時は仕事の生産性の向上を常に追い求めているところがあり、お金を稼いでナンボみたいなところも正直ありました。それが今では人のやさしさや誰かを助けることの方が大事だと考えるようになりました。
デイサービスには80〜90代のご高齢の利用者さんも多くいらっしゃいます。中には戦争を体験した人、生活に困難がありつつも前向きに長生きのために努力してきた人などがいて。あと「今日デイサービスに行けるから幸せ」とまで言ってくださる人もいます。様々な利用者さんの声や人生を共有させてもらっているうちに、自分も今ここにいるだけで幸せなんだと気付くことができました。
−本当にそうですね。それでは最後に、今大切にしているやりたいことを教えてください。
写真が好きなので撮り続けていきたいです。自分の表現活動を通して、介護や福祉の世界の魅力を多くの人へ伝えられればなと思っています。また認知症の啓蒙や、認知症当事者が認知症と診断された初期の人への相談相手となる「ピアサポート」という活動もこれまで通りやっていきたいですね。
プロフィール
下坂厚
1973年生まれ、京都府出身。2019年46歳で若年性アルツハイマー型認知症を発症。それを機に、仲間とともに開業した鮮魚店を退社。現在は、デイサービスセンターでの勤務を経て、本部にて広報などを担当。自身のSNSや講演会などを通し認知症の啓蒙活動も展開中。ホームヘルパーとして働く妻とふたり暮らし。
著書に『記憶とつなぐ 若年性認知症と向き合う私たちのこと』(双葉社)がある。
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